連続講座(全3回)

琳派の誕生 ─俵屋絵師と尾形光琳から見た宗達─ 講師=林 進


講座概要
 さきのBunkamura・ナディッフモダン主催、連続講座(全10回)『宗達を検証する—友人角倉素庵の視点から絵師宗達の真実に迫る—』(2013年6月~14年3月)では、江戸初期の宗達(野野村氏)が京都の東山、当時、特殊地域と見なされた「六原」に住む町人層の絵師であったこと、当初、書のための料紙装飾と扇絵を制作する絵画工房(絵屋と呼ばれた)を営み、屋号を「俵屋」といったこと、晩年、寛永七年(1630)に朝廷から「法橋」が叙位され、以後、寛永十年(1633)に引退するまでの四年間、「法橋」絵師として、俵屋の絵師たちの協力を得て、屏風絵など大画面制作を行ったこと、また生涯を通じて京の豪商で能書家・角倉素庵(通称与一、1571~1632)と深く交わり、互いに影響し合い、二人はしばしば宗達下絵・素庵書のコラボレーション(和歌巻など)を行ったことなど、お話しいたしました。新出の文献史料の分析、宗達作品の新たな解釈を行いました。講座の内容が従来の宗達観と大いに異なっており、出席された方は、さぞかし驚かれたに違いありません。

 また、講座では、宗達の絵に一貫して《生命の輝き》と《生命の儚さ》、《時の移ろい》すなわち仏教でいう《無常観》、神道でいう《死生観》が表現されていることを指摘しました。その主題の表出は見事というほかありません。宗達は、大胆な装飾的表現の中に、ゆかしい古典美を伝えました。素庵はそのことをよく理解し、宗達の下絵料紙に古歌や古詩を染筆し、新たな古典的世界を創造しました。

 従来の美術史では、「本阿弥光悦と素庵と宗達」の三点からなる三角形の思考の枠組み(敷衍して例えれば、辻邦生『嵯峨野名月記』の主人公三人の構図)の中で、現在の視点に立って、宗達が論じられてきました。そこでは、宗達は現代的な芸術家(アーチスト)として登場します。私は、新たに「天皇(後陽成・後水尾)と素庵と宗達」の三点からなる三角形の思考の枠組みを設定し、その中で宗達を考えることを提案します。そうすることで、今まで知られていない宗達の真実の姿が浮かび上ってくる、と確信します。しかし、宗達を知りたいと思う私たちの前に、いつも、大きな《壁》が立ちはだかっています。それは、神格化された《光悦》の壁です。これまで、光悦の伝説が史実として享受されてきた節があり、光悦の検証が急務でありますが、今回の連続講座では、ひとまず光悦を保留することにいたします。

 《琳派》という言葉は、光琳の「琳」の一文字を用いた造語です。現代の概念です。かつて同じ用語に《光悦派》や《光琳派》という言葉がありました。明治維新以降の日本画、美術工芸の分野で、美術家たちのアイデンティティーとして考え出された概念です。

 美術史家の野間清六氏は、昭和二十七年(1952)の「琳派芸術の概観」(国立博物館編『宗達光琳派図録』所収、便利堂刊)の中で、「琳派の実は、本阿弥光悦に発し、野村宗達につづき、尾形光琳、弟乾山を経て酒井抱一につながる一連の芸風」と述べました。《琳派》が美術史の概念として使われた最初です。古典芸能の世界でいわれる《芸風の継承》を意識してか、琳派を《一連の芸風》と定義するのは、至言です。野間氏は、とくに光悦を取り上げ琳派芸術の特徴について論じました。昭和四十七年(1972)に東京国立博物館で開催された創立百周年記念特別展「琳派」に至って、今日の《琳派》観が成立しました。

 私は、《琳派》は光悦ではなく、宗達に発すると考えます。今回の講座では、《琳派》の現代的意義については、美術史の問題ではありませんので、触れることはいたしません。現在、京都で企画されている2015年の「琳派400年記念祭」(400年は光悦が鷹ヶ峰を拝領した元和元年〈1615〉から数えての年数)の発想は、昭和二十七年の野間説を思い起します。

──────── 林 進





メッセージ ………… 林 進
 今回の連続講座「琳派の誕生」は、前回の連続講座「宗達を検証する」の補遺と考えています。俵屋の絵師と江戸中期の絵師である尾形光琳(1658~1716)を取り上げ、三つの問題を考察します。なお、この度の着想は、本年6月15日から7月19日に開催された関西大学博物館の夏季企画展「角倉素庵と俵屋宗達」の企画・実施の中で得ました。

 第一回の講座では、光琳が江戸から京都に戻ってから最晩年まで、宗達筆「風神雷神図屏風」「渡辺家本・西行物語絵巻」「益田家本・伊勢物語図色紙」などを模写(透き写し)して描いた作品を自作とした事実、また宗達が所持した古絵巻・絵手本・粉本・下絵・草稿類を元にして数多くの絵を描いた事実を検討します。光琳はなぜ、盗作まがいのことを行ったのか、なぜそのことを秘密にしたのか、謎です。光琳は、宗達画と宗達が制作に使った絵画資料をどこで見たのか、興味深い問題です。一方、宗達の後裔「俵屋野野村氏」(京俵屋の女重春、女国春、通正信武の家系)は光琳の時代まで存続していました。光琳はかつての呉服商雁金屋と着物の下絵描き(当時の俵屋の本業か)との縁で、六原にあった俵屋の蔵で、宗達関係資料を見た可能性が高い。光琳が宗達の実物(風神雷神図等)を発見する以前、元禄期(1688~1703)、後裔の野々村通正信武は琳派風の絵ではなく、町狩野風の絵を描いていました。琳派の芸風は絶えておりました。宗達画と宗達関係資料は絵画制作に使用されることもなく、誰にも知られず、大切に保管されていた、と推察されます。

 第二回では、光琳の晩年の傑作「紅白梅図屏風」の成立とその主題の問題を考察します。本作品は、宗達が寛永七年(1630)に描き後水尾上皇に進上した「楊梅図屏風」に関係があると、私は考えています。二つの作品を装飾的様式と主題の面から検討します。そこから、光琳芸術の核心が見えてくるのではないかと思います。

 第三回では、俵屋絵師の作品と宗達作品との線引きが可能かどうかを検討します。「蔦の細道図屏風」と「伊勢物語図色紙」を取り上げて分析します。

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