序章〜 わたしの俵屋宗達 林進


 宗達は、桃山時代から江戸時代初期、慶長・元和・寛永期 (1596~1643) に活躍した京都の町絵師である。生没年不詳。寛永十一年 (1634) 頃に絵筆を置き、隠居した。本姓は野野村氏、諱 (いみな) は宗達、字 (あざな) は伊年、雅号を対青、対青軒といった。「俵屋」 (たわらや) は、宗達が主宰する小規模な装飾絵画工房 (当時「絵屋」とよばれた) の屋号である。慶長から元和期、もっぱら和歌や漢詩、物語などを染筆するための料紙 (色紙、短冊、巻子、冊子用) を加工し、木版雲母刷 (きらずり)・金銀泥刷や金銀泥で下絵を施す仕事を行った。また宗達は、金銀泥や岩絵具で華麗な〈扇絵〉を描いた〈職人絵師〉であった。 宗達は、平安王朝のみやびな料紙装飾に倣い、王朝以来の伝統文様、草花・花木や動物や景物など身辺のモティーフを斬新に表した。宗達の装飾料紙は、当時、王朝文化に憧れを懐いた都の貴顕や町衆に大いに受け入れられた。京の豪商で古典学者、能書家・角倉素庵 (すみのくら・そあん、1571~1632) は、宗達に優れた感性と画才を見出し、宗達と合作して「金銀泥蓮下絵和歌巻」「金銀泥鶴下絵三十六歌仙和歌巻」等を制作し、《歌と絵と書》の新たな美の世界を拓いた。素庵は、はじめて我が国の古典文学書の出版を企画し、自ら厳密な本文校訂を行い、新しい活字書体のデザインを行った。かれの居住地の洛西嵯峨で刊行した古活字版「嵯峨本」には、宗達の俵屋が製作した美麗な装飾料紙が用いられた。

 寛永六年 (1629) 冬、素庵の長年の友人である野野村知求 (野野村宗達) は、宿痾の病によって世間から引退せざるを得なかった素庵に代わって、素庵の校訂になる平安王朝の漢文撰集『本朝文粋』(十四巻、古活字版) を出版した。その功により、翌七年春に、宗達は、朝廷から「法橋」が叙位された。はからずも《朝廷御用絵師》の身分を賜った。その返礼として、後水尾上皇の貴命による金地著色「楊梅図屛風」六曲一双ほかを描き、進上した。

 以後、宗達は、醍醐寺本「扇面貼交屛風」や「舞楽図屛風」「源氏物語図屛風」「松島図屛風」「槇檜図屛風」などの大作を描き、寛永九年から十年には、益田家本「伊勢物語図色紙」、「風神雷神図屛風」、京都市東山区・養源院の「松岩図襖」「白象・唐獅子図杉戸絵」を制作した。それを期に、かれは絵画制作の現場から引退し、俵屋の絵師たちの活躍を見守った。その間、俵屋のブランド名として「宗達法橋」の落款は、引き続き使用された。

─── 林 進





「角倉素庵と俵屋宗達」展 配布パンフレット


 関西大学博物館における「角倉素庵と俵屋宗達」展(NEWS欄参照)の配布パンフレットは林進氏の両者に対する考察のエッセンスが盛られておりますので、本欄からダウンロードできるように致しました。
 尚、理解を援けるため一部に文責=NADiffで注をほどこしました。